ジャイアンツの顔でありつづけ、マスコミの注目度ナンバー1である原辰徳。
結婚でも世間の話題となりました。
結婚相手の奥さんは、松本明子さんといいます。復縁・奪略愛だったとか。嫁の明子さんは元ホステスの噂や6歳年上です。結婚までの馴れ初めには、原監督の情熱的なアプローチがありました。
原監督の略奪婚が話題になってますが原監督当時は選手側から一方的に見れば単に返して貰ったようなものです。
- 生年月日:1958年7月22日
- ポジション:内野手、左翼手
- 出身チーム:読売ジャイアンツ
巨人・原辰徳の妻・奥さんは再婚?不倫の奪略愛!自宅は?

現役時代はドラフト1位で入団し主砲として活躍した人気選手でした。
また、長嶋茂雄氏、王貞治氏の歴代スーパースターの後継者として期待され、人気選手として一時代を築き上げました。
引退後、1999年に巨人のヘッドコーチに就任し、その後監督となりました。
監督就任1年目でリーグ優勝、日本一を果たしまたが2003年成績不振を理由に自ら退任したのです。
2期目の就任後は、10年の長期に渡って監督としてチームを引っ張りました。選手からもファンからもとても愛された監督です。
原辰徳監督の奥さん・妻は松本明子さんと結婚!

原辰徳は、1986年に結婚されています。
結婚相手のお嫁さんは、”松本明子”さんという6歳年上の一般人女性です。松本明子さんとは、大学時代から交際していたそうで、当時から結婚も考えていたようです。
奥さんは一度は破局し、別のかたと結婚!
原辰徳さんは読売ジャイアンツへ加入し、1年目から22本の本塁打を記録するなど大活躍します。若大将ですね。
結婚も考えていたようですが、原辰徳さんは読売ジャイアンツで一番人気ある選手であり、世間での注目が非常にたかかったのです。
結果、父親が二人の結婚に反対したと言われています。
野球に専念することと、父親の結婚反対などもあり、二人は破局となりました。
上品でとてもおきれいな方ですが原選手とお付き合いしていて年上だった為反対され、そこそこ有名な家柄の男性と結婚、TVで野球ばかり見てた
破局後、松本明子さんは別の男性と交際をスタートさせ結婚しています。
原辰徳と再会

しかし、1985年に二人は再会を果たします!
明子夫人は不動産会社の社長夫人になりましたが 夫婦仲がうまく行かず原監督に相談するようになったと聞いています。
その後、離婚が成立して原監督と再婚に至っています。
再婚する時に再び父親に報告に言ってますがこの時、父親は黙って話を聞いていたそうで特に会話はなかったそうです。
一人でハワイに行き日本に帰っても嫁ぎ先に戻らず雑誌記者が訊ねてきて初めて嫁が原選手と付き合っていたことを暴露。
再会を果たした頃に、松本明子さんはすでに離婚していました。
巨人・原監督と不倫?復縁・奪略愛での結婚!

松本明子さんが離婚していたことから、原辰徳さんはもう一度付き合うようになったようです。再会を果たした頃から、原辰徳さんはスランプを克服しているそうです!!
松本明子さんの存在はとても大きな存在だったわけです。
そして、原辰徳は世間で注目を浴びて1986年に二人は結婚となりました。
原辰徳の妻はホステスだったの?
写真を見る限り、派手なイメージではあります。落合信子やサッチーのようなタイプではないとは思いますね。

結婚式がかわいそう
王「巨人軍の4番としては物足りない」
長嶋「来期は最低でも3割1分40本」
原辰徳の娘の名前?子供は何人?

原辰徳の息子は有名です。娘がいるとは聞いたことがないですね。一人っ子ってことではあります。
原辰徳の家系図は?妹は原勝代!父は原貢

原勝代!
お母さんは、九州人のようで、お父さんと一緒に神奈川県に引っ越した頃は、夕方になると九州の方角を見ながら、涙を流していたそうです。
しかし、持ち前の明るさを発揮し、スポーツ記者さん達にも大人気のお母さんでした。
お正月の午前3時に、原家で大山神社の初詣に記者が同行しても、嫌な顔ひとつせず歓待してくれました。
そんなお母さんですが、一度だけ、お父さんに意見をしたことがあります。
お父さんは、辰徳さんを贔屓していると見られるのを避けるため、高校時代は主将に任用しませんでした。
東海大でも、同じ方針を示すお父さんに、こう言い放ちます。
タッチンはあなたのために十分尽くしている。もうどこに出しても恥ずかしくない。堂々と主将にしてあげてください
この意見が影響したのかは分かりませんが、辰徳さんはその後、東海大の主将に任命されました。
原辰徳の父親は原貢
お父さまが元東海大学付属相模高等学校野球部監督の原貢氏という野球一家に生まれ育つ。
「智之が食べたいというものを食べさせていましたよ」とほほ笑む、おおらかなお母さん。
東海大相模での父のいる高校で野球をしたいと話すと二つの条件を出さそうです。 一つは、他の部員と実力が五分五分なら補欠、七三なら(レギュラーに)考えるということ。
もう一つは、昔は多少の愛のムチがあって、「人が1回でもお前は3回。それでも周りは厳しい目で見る。それが耐えられるか」ということでした。「耐えられます」と答えました。
原辰徳は、とにかく迫力があり、いくら我が子への”愛のムチ”だとはいえ、ボコボコにしていたそうです。
3年夏の甲子園を終わった原貢氏は、「ご苦労さん、よくがんばった。お前に厳しくすることが、チームの和を保たせるために必要だった。ただ、俺もきつかったぞ」 との言葉があったそうです。
まとめ
東海大学の基盤をつくってますからね。さすがです。
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